車に乗り込み、以前調査をしていた時に知った英人の住所を告げたら、運転手に「レストランではないのですか?」と確認された。
野崎がここにいたのは運転手に念を押すためだったのだと知り、怒りが溜め息に変わりそうだった。
説明するのももどかしくて「誰の命令だっ」と怒鳴れば、竦み上がって車を発進させた。
千城は声をひそめた怒り方はしても、声を荒げることはまずないから、相当怯えたようだ。
夕刻なのに渋滞がほとんどなくスムーズに進んでいることが、唯一千城の苛立ちを治めていた。
聞いていたアパートに着いた時、千城は愕然としてしまった。
建設業界にいるために幾多に渡り、老朽化した物件のある区画などを再開発する為その現場を見る機会も多かったが、それらに準ずるものがあった。ヘタをすればそれ以下だ。
自分と同じ生活レベルを送らせた後で、このようなところでの生活に戻れるわけがないと千城は感じた。
ここに戻した野崎を酷く恨みながら、それでも部屋に明りが灯っていることを確認するとホッとした。
だがいくら呼び鈴を鳴らしてもドアを叩いても応答はなかった。呼んでも微かな物音もせず、あんな仕打ちで嫌われているのかと思った。
だけど顔を見ずに帰ることなど到底できず、ドアノブに手を掛けてみれば鍵がかかっていなかった。
千城は迷いもなく部屋の中に入った。自分の靴を二足分も置けば一杯になってしまう三和土。部屋の奥まで見渡せる造りの狭さ。英人に与えたバスルームと同じ広さ程度の居住空間には絶句させられるしかなかった。
「英人?」
呼び掛けても何の物音もしない。
上がり込んだ千城は勝手に押入れの中まで確認したが、英人の姿はどこにもなかった。
時間帯が夕食時の為に外食に出たか買いに出たのかと思おうとしたが、矛盾点が多すぎる。
嫌な予感がした。
部屋のカギは開いていた。電気も点いていた。ベッドには横になった形跡すらある。微かな温もりさえあった。なのに、英人だけがいない。
見回した中で、テーブルの下に投げ出されたような紙が数枚見えた。
片付かれた部屋の中では、散らばる紙が異様な光景に思えた。
それを手にした途端、また千城の中に言いようのない怒りと憎しみ、そして後悔が滾った。
野崎が言ったように、手にした書類には500万円の振り込みが完了したことと、千城が指示を出したことが記載されていた。
その書類にだけ、手で握ったような皺が端に出来ていた。
これを見て英人が何を思ったのか、…想像したくなかった。
たった二日間の間で、一生分くらいの睦言を英人に告げたと思うくらい、千城はこれまでに感じたことのない感情を英人に捧げた。彼を大切にして守りたかった。
信頼させる言葉を嫌というほど言って聞かせたのに、追い出された挙句に金で処分された気持ちは想像し難い。
最初こそ厳しく当たりはしたものの、妙な男の存在が千城のこれまでになかった独占欲に火を付けた。なんだか分からない感情に支配されながら過ごし、いつの頃からか、英人が千城を甘い瞳で見つめるのに気付いた。世間を知らず無垢な心で自分だけを頼ってくれる、安心してくれる姿が嬉しくもありこそばゆくもあり、かけがえのない存在として手離したくないものへと変化した。
英人が心を許すのは自分だけでいい。その為なら何でもしてやると千城は英人が自分しか見ないように持てるだけの力を注ぎこんだ。
英人に初めて「好き」と言われた時に、これがそういう感情なのかと自分で驚いたくらいだった。
色恋沙汰など無縁で、親の言われるがままにこの世を送ればいいとどこか悲観的だった人生に明りを灯したのは英人だ。
千城はとてもベッドとは思えない狭くて硬い場所に腰を下ろした。ここから離れる気になれなかった。
たとえどれだけの時間を置いても戻ってくると信じたかった。
数分の時しか経っていないと思う千城に、ドアの外から「社…長…」と怯えた運転手の声が響いてきた。こんな小さな声でも聞こえてしまうのか…と半ば呆れた。
どうせ野崎に連絡でももらって急げとでも促されたのだろう。
それからふと、野崎なら英人の行き先を知っているのではないのかという疑心を抱いた。
先回りして英人に連絡をし、「今から社長が向かうから身を隠して」とでも伝えれば、今の英人なら野崎に従うだろう。
千城は立つこともしなかった。
「帰っていい。野崎に今日は行かないと伝えろ。英人が戻るまでここにいるからと」
一種の賭けのようなものだった。
「そんな…ぁ」
と情けないほどの運転手の声が聞こえたが、千城は無視した。
そもそも誰が原因でこんなことになったんだ。
苛立ちを必死で押さえながら、ただひたすら英人が戻ってくることを願った。
どれくらいの時が経ったのか、掠れるような呼び鈴が部屋に響いた。
どこの誰だと無視し続ければ、玄関ドアの外で野崎の声が聞こえた。
「社長、こちらにいらっしゃるんですか?」
腕時計で時間を確認してみれば、ここに辿り着いてから1時間は経過している。
千城はようやく腰を上げると、玄関に近づき薄汚いドアを開けた。
「着替える時間だけと申し上げたはずです」
「英人をどこにやった?」
かみ合わない会話が玄関先で行われた。
すぐに野崎は状況を判断したようで「一緒ではなかったのですか?」と驚いていた。きっと運転手から「戻らない」と聞いた時点でここに向かってきたのだろう。
千城が部屋の中に居れば当然中から鍵を開けた人物がいるはずだと思う。
野崎は鋭い視線を素早く室内に巡らせ、千城以外の人間が居ないことを確認した。ならば何故千城が部屋の中にいるのか…、入れた理由は…。
全てを捨てて身一つで出たのだと咄嗟に知ることができた。鍵を閉めるとはまた開けることを意味しているから…。
野崎の目を見ただけで、千城は自分が疑ったような野崎が英人を匿ったという事実はないことに愕然とした。
よくよく考えれば分かることだった。携帯電話も通じない英人に野崎だって連絡のつけようなどなかったはずだと…。
賭けることなど最初からなかった…。
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野崎がここにいたのは運転手に念を押すためだったのだと知り、怒りが溜め息に変わりそうだった。
説明するのももどかしくて「誰の命令だっ」と怒鳴れば、竦み上がって車を発進させた。
千城は声をひそめた怒り方はしても、声を荒げることはまずないから、相当怯えたようだ。
夕刻なのに渋滞がほとんどなくスムーズに進んでいることが、唯一千城の苛立ちを治めていた。
聞いていたアパートに着いた時、千城は愕然としてしまった。
建設業界にいるために幾多に渡り、老朽化した物件のある区画などを再開発する為その現場を見る機会も多かったが、それらに準ずるものがあった。ヘタをすればそれ以下だ。
自分と同じ生活レベルを送らせた後で、このようなところでの生活に戻れるわけがないと千城は感じた。
ここに戻した野崎を酷く恨みながら、それでも部屋に明りが灯っていることを確認するとホッとした。
だがいくら呼び鈴を鳴らしてもドアを叩いても応答はなかった。呼んでも微かな物音もせず、あんな仕打ちで嫌われているのかと思った。
だけど顔を見ずに帰ることなど到底できず、ドアノブに手を掛けてみれば鍵がかかっていなかった。
千城は迷いもなく部屋の中に入った。自分の靴を二足分も置けば一杯になってしまう三和土。部屋の奥まで見渡せる造りの狭さ。英人に与えたバスルームと同じ広さ程度の居住空間には絶句させられるしかなかった。
「英人?」
呼び掛けても何の物音もしない。
上がり込んだ千城は勝手に押入れの中まで確認したが、英人の姿はどこにもなかった。
時間帯が夕食時の為に外食に出たか買いに出たのかと思おうとしたが、矛盾点が多すぎる。
嫌な予感がした。
部屋のカギは開いていた。電気も点いていた。ベッドには横になった形跡すらある。微かな温もりさえあった。なのに、英人だけがいない。
見回した中で、テーブルの下に投げ出されたような紙が数枚見えた。
片付かれた部屋の中では、散らばる紙が異様な光景に思えた。
それを手にした途端、また千城の中に言いようのない怒りと憎しみ、そして後悔が滾った。
野崎が言ったように、手にした書類には500万円の振り込みが完了したことと、千城が指示を出したことが記載されていた。
その書類にだけ、手で握ったような皺が端に出来ていた。
これを見て英人が何を思ったのか、…想像したくなかった。
たった二日間の間で、一生分くらいの睦言を英人に告げたと思うくらい、千城はこれまでに感じたことのない感情を英人に捧げた。彼を大切にして守りたかった。
信頼させる言葉を嫌というほど言って聞かせたのに、追い出された挙句に金で処分された気持ちは想像し難い。
最初こそ厳しく当たりはしたものの、妙な男の存在が千城のこれまでになかった独占欲に火を付けた。なんだか分からない感情に支配されながら過ごし、いつの頃からか、英人が千城を甘い瞳で見つめるのに気付いた。世間を知らず無垢な心で自分だけを頼ってくれる、安心してくれる姿が嬉しくもありこそばゆくもあり、かけがえのない存在として手離したくないものへと変化した。
英人が心を許すのは自分だけでいい。その為なら何でもしてやると千城は英人が自分しか見ないように持てるだけの力を注ぎこんだ。
英人に初めて「好き」と言われた時に、これがそういう感情なのかと自分で驚いたくらいだった。
色恋沙汰など無縁で、親の言われるがままにこの世を送ればいいとどこか悲観的だった人生に明りを灯したのは英人だ。
千城はとてもベッドとは思えない狭くて硬い場所に腰を下ろした。ここから離れる気になれなかった。
たとえどれだけの時間を置いても戻ってくると信じたかった。
数分の時しか経っていないと思う千城に、ドアの外から「社…長…」と怯えた運転手の声が響いてきた。こんな小さな声でも聞こえてしまうのか…と半ば呆れた。
どうせ野崎に連絡でももらって急げとでも促されたのだろう。
それからふと、野崎なら英人の行き先を知っているのではないのかという疑心を抱いた。
先回りして英人に連絡をし、「今から社長が向かうから身を隠して」とでも伝えれば、今の英人なら野崎に従うだろう。
千城は立つこともしなかった。
「帰っていい。野崎に今日は行かないと伝えろ。英人が戻るまでここにいるからと」
一種の賭けのようなものだった。
「そんな…ぁ」
と情けないほどの運転手の声が聞こえたが、千城は無視した。
そもそも誰が原因でこんなことになったんだ。
苛立ちを必死で押さえながら、ただひたすら英人が戻ってくることを願った。
どれくらいの時が経ったのか、掠れるような呼び鈴が部屋に響いた。
どこの誰だと無視し続ければ、玄関ドアの外で野崎の声が聞こえた。
「社長、こちらにいらっしゃるんですか?」
腕時計で時間を確認してみれば、ここに辿り着いてから1時間は経過している。
千城はようやく腰を上げると、玄関に近づき薄汚いドアを開けた。
「着替える時間だけと申し上げたはずです」
「英人をどこにやった?」
かみ合わない会話が玄関先で行われた。
すぐに野崎は状況を判断したようで「一緒ではなかったのですか?」と驚いていた。きっと運転手から「戻らない」と聞いた時点でここに向かってきたのだろう。
千城が部屋の中に居れば当然中から鍵を開けた人物がいるはずだと思う。
野崎は鋭い視線を素早く室内に巡らせ、千城以外の人間が居ないことを確認した。ならば何故千城が部屋の中にいるのか…、入れた理由は…。
全てを捨てて身一つで出たのだと咄嗟に知ることができた。鍵を閉めるとはまた開けることを意味しているから…。
野崎の目を見ただけで、千城は自分が疑ったような野崎が英人を匿ったという事実はないことに愕然とした。
よくよく考えれば分かることだった。携帯電話も通じない英人に野崎だって連絡のつけようなどなかったはずだと…。
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- 関連記事
千城さんも、英人が身体を売りながらこんな老朽化した貧しい住処で暮していたと知ったら切なく思ったことでしょう。
あの時、野崎氏からの書類を見た後、何も持たずに飛び出しただけじゃなくて鍵すらかけずに出てきてしまったんですね。
なんだかもう生きる意味も希望もなくしてどうでもいいみたい。それまでも、生きているというより死んでないといった感じで投げやりな生活みたいだったし。ほんのわずか生に傾いていたバランスが崩れてしまったのだから、無意識にでも2度と戻らない、少なくとも生きては戻らないみたいな気持ちになってしまったのでしょうか。
少しは野崎氏もかわいそうなことをしたくらい思ってほしいものです。
千城さんのためにも、人として心を踏みにじる行為の非道さを理解できる側近であって欲しいと思います。
あの時、野崎氏からの書類を見た後、何も持たずに飛び出しただけじゃなくて鍵すらかけずに出てきてしまったんですね。
なんだかもう生きる意味も希望もなくしてどうでもいいみたい。それまでも、生きているというより死んでないといった感じで投げやりな生活みたいだったし。ほんのわずか生に傾いていたバランスが崩れてしまったのだから、無意識にでも2度と戻らない、少なくとも生きては戻らないみたいな気持ちになってしまったのでしょうか。
少しは野崎氏もかわいそうなことをしたくらい思ってほしいものです。
千城さんのためにも、人として心を踏みにじる行為の非道さを理解できる側近であって欲しいと思います。
甲斐様
こんばんは。レス遅くなりました。
> 千城さんも、英人が身体を売りながらこんな老朽化した貧しい住処で暮していたと知ったら切なく思ったことでしょう。
>
> あの時、野崎氏からの書類を見た後、何も持たずに飛び出しただけじゃなくて鍵すらかけずに出てきてしまったんですね。
> なんだかもう生きる意味も希望もなくしてどうでもいいみたい。それまでも、生きているというより死んでないといった感じで投げやりな生活みたいだったし。ほんのわずか生に傾いていたバランスが崩れてしまったのだから、無意識にでも2度と戻らない、少なくとも生きては戻らないみたいな気持ちになってしまったのでしょうか。
千城に変えられて千城が全てみたいになっていましたからね~。
頭では「こんな関係は夢」とか理解していいたつもりでも、いざ現実を突きつけられた時のショックは相当だったようです。
本当に拾ってくれた人がいて良かったです。
> 少しは野崎氏もかわいそうなことをしたくらい思ってほしいものです。
> 千城さんのためにも、人として心を踏みにじる行為の非道さを理解できる側近であって欲しいと思います。
千城が人間としての変化を遂げていくのをそばでみることになりますから、コイツも倣ってほしいものです。
コメントいただきありがとうございました。
こんばんは。レス遅くなりました。
> 千城さんも、英人が身体を売りながらこんな老朽化した貧しい住処で暮していたと知ったら切なく思ったことでしょう。
>
> あの時、野崎氏からの書類を見た後、何も持たずに飛び出しただけじゃなくて鍵すらかけずに出てきてしまったんですね。
> なんだかもう生きる意味も希望もなくしてどうでもいいみたい。それまでも、生きているというより死んでないといった感じで投げやりな生活みたいだったし。ほんのわずか生に傾いていたバランスが崩れてしまったのだから、無意識にでも2度と戻らない、少なくとも生きては戻らないみたいな気持ちになってしまったのでしょうか。
千城に変えられて千城が全てみたいになっていましたからね~。
頭では「こんな関係は夢」とか理解していいたつもりでも、いざ現実を突きつけられた時のショックは相当だったようです。
本当に拾ってくれた人がいて良かったです。
> 少しは野崎氏もかわいそうなことをしたくらい思ってほしいものです。
> 千城さんのためにも、人として心を踏みにじる行為の非道さを理解できる側近であって欲しいと思います。
千城が人間としての変化を遂げていくのをそばでみることになりますから、コイツも倣ってほしいものです。
コメントいただきありがとうございました。
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