英人が保育園に入ったのは3歳の時だった。通っていた頃の記憶はかなり曖昧だ。
だが最初の入園日に、父母に送ってもらった園の扉にしがみついて「置いていかないで」と泣き喚いたことはよく覚えている。
先生に宥められても扉から離れようとせず、無理矢理抱っこをされても、英人はひたすら去っていく両親を目で追い続けた。
いつかテレビで見た、意味も分からなかったけど牢屋に閉じ込められる囚人のような気がした。
自分が何か悪いことをしてそのお仕置きなのだと思った。
その日はどんな遊び道具を与えられても英人は泣きやまなかった。
夕方も早い時間に父が迎えにきた。母はパートに出ていて、その帰りを待っていられなかった父が先に一人で来てしまったというわけだ。
幼心に「迎えにきてくれる」ことの安心感を味わった時だった。
父は時々いなくなった。
「お仕事に出かけたんだよ」と母に言われて幼心にも納得した。
会えないのは淋しかったが、家に居る時は一日中でもかまってくれた。
今思えば、自由業だったから時間の制約はあまりなかったのだろう。
その周期が長くなり、父の姿を見ない日の方が長くなっていった。そしていつしか戻らなくなった…。
忘れていた記憶だった。…というより、無理に記憶の中から消したというほうが正しいのだろうか。
入園日に送ってくれたのは母だけで、いつも送り迎えしてくれたのも母だけだったと記憶をすり替えていた。
その全ては「父に捨てられた」という現実に繋がった。
父から聞いた話が正しければ、『戻らなくなった』頃に母との諍いが起きたのだろう。
断片的にしか脳裏を過ぎなかった思い出が、色を付けて戻ってくる。
その後の人生は振り返りたくないほど悲惨だった。
そう…千城に拾われるまで…。
…離れないで…、離さないで…。
そう思うことはおかしなことではない。
だけど英人の場合はその思いが強過ぎて周りが見えなくなってしまう時がある。
こうしてフランスに来る時ですら、そして来てからも『千城が待っていてくれる』という言葉を心の底から信じてはいなかったのだと英人は改めて思い返した。
『いつか捨てられる』という過去の呪縛から解放しようと、榛名が父に求めた答えが英人を楽にするにはまだ時間がかかったし、簡単に気持ちが切り替えられるほど過ごしてきた道は平坦ではなかった。
榛名の問いかけが良い方法だったかどうかは判断がつかないが、英人の心の中にポツリと明りが灯ったのは確かだった。
榛名は直接父から過去を暴くことで英人の傷を広げで膿をかき出した。
もっと早く知りたかった…、もっと早く出会いたかった…。
恨みも怒りも消えて単純にそう思った。
父の言葉をそのまま聞き入れてしまいそうな慄きに英人は再び「帰る…」と誰にも聞こえないような小さな声を上げた。
声は波音に消されて榛名の耳にも届かなかったようで、榛名はその場を動こうとしなかった。
言葉を発することができずに黙ってしまった父に榛名は視線を向けた。
「こんな状況にありながら、貴方達に感謝するところもあるんだ。今のこの英人に出会えなかったら俺も人を思う心を知らなかった。英人が過ごしてきた日々は決して無駄にはなっていない。これまで歩んできてくれた人生があって、俺を救ってくれたという事実があることも忘れないでほしい」
父が目を見開くのと同時に榛名の言葉は英人の中にも染みわたっていった。
過去の自分たちを否定するのではなく、丸ごと受け入れてくれる度量の大きさ。
英人は榛名に包まれているだけだと思っていたから意外でもあった。
…自分が千城を救う…?…
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だが最初の入園日に、父母に送ってもらった園の扉にしがみついて「置いていかないで」と泣き喚いたことはよく覚えている。
先生に宥められても扉から離れようとせず、無理矢理抱っこをされても、英人はひたすら去っていく両親を目で追い続けた。
いつかテレビで見た、意味も分からなかったけど牢屋に閉じ込められる囚人のような気がした。
自分が何か悪いことをしてそのお仕置きなのだと思った。
その日はどんな遊び道具を与えられても英人は泣きやまなかった。
夕方も早い時間に父が迎えにきた。母はパートに出ていて、その帰りを待っていられなかった父が先に一人で来てしまったというわけだ。
幼心に「迎えにきてくれる」ことの安心感を味わった時だった。
父は時々いなくなった。
「お仕事に出かけたんだよ」と母に言われて幼心にも納得した。
会えないのは淋しかったが、家に居る時は一日中でもかまってくれた。
今思えば、自由業だったから時間の制約はあまりなかったのだろう。
その周期が長くなり、父の姿を見ない日の方が長くなっていった。そしていつしか戻らなくなった…。
忘れていた記憶だった。…というより、無理に記憶の中から消したというほうが正しいのだろうか。
入園日に送ってくれたのは母だけで、いつも送り迎えしてくれたのも母だけだったと記憶をすり替えていた。
その全ては「父に捨てられた」という現実に繋がった。
父から聞いた話が正しければ、『戻らなくなった』頃に母との諍いが起きたのだろう。
断片的にしか脳裏を過ぎなかった思い出が、色を付けて戻ってくる。
その後の人生は振り返りたくないほど悲惨だった。
そう…千城に拾われるまで…。
…離れないで…、離さないで…。
そう思うことはおかしなことではない。
だけど英人の場合はその思いが強過ぎて周りが見えなくなってしまう時がある。
こうしてフランスに来る時ですら、そして来てからも『千城が待っていてくれる』という言葉を心の底から信じてはいなかったのだと英人は改めて思い返した。
『いつか捨てられる』という過去の呪縛から解放しようと、榛名が父に求めた答えが英人を楽にするにはまだ時間がかかったし、簡単に気持ちが切り替えられるほど過ごしてきた道は平坦ではなかった。
榛名の問いかけが良い方法だったかどうかは判断がつかないが、英人の心の中にポツリと明りが灯ったのは確かだった。
榛名は直接父から過去を暴くことで英人の傷を広げで膿をかき出した。
もっと早く知りたかった…、もっと早く出会いたかった…。
恨みも怒りも消えて単純にそう思った。
父の言葉をそのまま聞き入れてしまいそうな慄きに英人は再び「帰る…」と誰にも聞こえないような小さな声を上げた。
声は波音に消されて榛名の耳にも届かなかったようで、榛名はその場を動こうとしなかった。
言葉を発することができずに黙ってしまった父に榛名は視線を向けた。
「こんな状況にありながら、貴方達に感謝するところもあるんだ。今のこの英人に出会えなかったら俺も人を思う心を知らなかった。英人が過ごしてきた日々は決して無駄にはなっていない。これまで歩んできてくれた人生があって、俺を救ってくれたという事実があることも忘れないでほしい」
父が目を見開くのと同時に榛名の言葉は英人の中にも染みわたっていった。
過去の自分たちを否定するのではなく、丸ごと受け入れてくれる度量の大きさ。
英人は榛名に包まれているだけだと思っていたから意外でもあった。
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