温暖な気候の中、晴天にも恵まれて、榛名とのバカンスはあっという間に最終日を迎えた。
ニースに留まるだけではなく、郊外の町やモナコまで足を延ばす。榛名の行動力の良さもあって、英人はとても充実した旅行を楽しんだ。
もっとも…、どこに行こうが隣に榛名が居てくれるという安心感のほうが強かったのだが…。
帰国してから英人は何かが吹っ切れたように黙々と絵を描き続けていた。
英人のために榛名はアトリエとして使える建物を一つ買ってくれた。新築のビル群の間にひっそりと残されたような5階建の雑居ビルで、間借りしてくれるだけでいいと言ったのに「面倒だ」の一言で購入してしまう金銭感覚はやはりついていけない…。
英人は小さい頃から良く絵を描いていた。あの頃は単純に『描ける』ことが楽しかった。カレンダーの裏や広告の裏など、隙間があればそこに思いついたものを書き込んだ。小さい頃は『落書き』だったかもしれないが、その時の楽しさが沸々と湧いてくる。
榛名のマンションに引っ越してきてから、「活力を失った」と言った神戸の言葉が良く分かる気がした。
描きかけた絵の全てに覇気も躍動感もなかった。それらを全て処分する時に、ふと、「あぁ、もう過去の自分はいないんだ…」とぼんやり思った。
辛くて苦しい道のりだったけど、不幸だったのかと問われたらそうだとは言えない気がした。
母に抱き締めてもらうこともなかった。名前を呼んでもらったことも数えるほどだろう。
だけど暴力を振るわれたわけでもないし、最低限の暮らしはさせてもらっていたことを思い出す。母は英人がモラルに反したことをすれば厳しく叱ってくれたが、それ以外のことには寛容だった。
いつの時代にも英人には『絵』があった。
悲しい時も淋しい時も絵を描くと何故かホッとできた。描き上がって完成することの達成感があったから気が紛れていたのかもしれない。
そして今、父は自分たちを捨てたわけではなかったのだという事実が被さって、薄暗かった過去に色を付け始めた。
いつも何事にも否定的で前向きに物事を捉えようとしなかった性格が、榛名の存在を得たことで着実に変わり始めている。
榛名は英人が悩んだり心配したりすることを一笑するばかりで、いつの間にか解決されていれば悩むのが馬鹿気になってくる。
今が幸せだと思うから余計に、過去のくよくよした自分が思い出せないくらいに消えていた。
僅か2ヶ月という短い期間で十数点の作品を仕上げてしまったため、神戸が個展を開くと言いだした。
「せっかくこれだけの作品があるんだもの、もったいないよ」
ギャラリーの保管庫にはわざと飾らずにとっておいた作品が数点あった。
前々から神戸が考えていたことなのだと想像がつくが、英人にしてみれば突然の話で萎縮してしまう。
自信がなくうなだれていれば、勇気づけるように神戸が諭した。
「まあ、プロデュースは僕に任せてよ。悪いようにはしないから」
ニコニコと笑みを湛えられれば反論のしようもない。
神戸も榛名と似ていて、決めたら譲らないところがある。やり方こそ違うが、最終的に丸めこみ思った方向へ向かわせる術は似た者同士だと時々思う。
自分の絵が人に見てもらえる環境は確かに嬉しいが、恵まれた中にありながら英人は満たされない何かを抱えていた。
それはフランスでの撮影風景を目にしてから芽生えた『もっと何か大きなもの』という夢だった。
人に言わせれば贅沢と言われるかもしれないが、この数カ月で絵はあくまでも『趣味』でしかないのだと強く思うようになっていた。
もちろんそんなことを榛名に話したこともないし、自分自身、今後をどうしたいのか具体的に決まっているわけではない。
個展に関しては一任してと神戸に言われてしまい、それ以上言いようのなくなった英人はその日、大人しく帰路についた。
榛名のマンションとアトリエとして買ってもらったビルはそう遠くはない。
マンションに帰ってもやることもなく、最近はアトリエに籠ることが多くなった。
大きなビルに囲まれているせいで日当たりも悪く、作品にとっては良いことだったが、昼間から電気を点けっぱなしで時間の経過がイマイチ分からない。
この日も、夜になって榛名が訪れるまで英人は描き掛けの画材の前に座り、将来に付いて考えながらぼんやりと佇んでいた状態だった。
「まだここにいたのか」
背後から声をかけられて、ハッとする。
榛名は一度帰ったものの、姿が見当たらずここにやってきたらしい。仕事帰りの格好のままで、英人が何かの作品に打ち込んでいるのだと思っているようだった。
「あまり詰めるな。身体に良くない。神戸から連絡をもらったが、それほど気負うことではないだろう」
英人に近づいてきた榛名は背後から英人の身体を抱き締めた。
神戸はすでに榛名にまで個展を開くと連絡を入れていたようだ。行動の素早さは感心させられる。
「うん。分かってる。…そうじゃないんだ、ちょっと…」
言うつもりではなかった言葉がポロリと零れてしまえば、即座に榛名は反応した。
「何があった?」
心の弱い部分を晒してしまったようで後悔したが後の祭りだった。黙っていることを榛名は許してくれない。
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ニースに留まるだけではなく、郊外の町やモナコまで足を延ばす。榛名の行動力の良さもあって、英人はとても充実した旅行を楽しんだ。
もっとも…、どこに行こうが隣に榛名が居てくれるという安心感のほうが強かったのだが…。
帰国してから英人は何かが吹っ切れたように黙々と絵を描き続けていた。
英人のために榛名はアトリエとして使える建物を一つ買ってくれた。新築のビル群の間にひっそりと残されたような5階建の雑居ビルで、間借りしてくれるだけでいいと言ったのに「面倒だ」の一言で購入してしまう金銭感覚はやはりついていけない…。
英人は小さい頃から良く絵を描いていた。あの頃は単純に『描ける』ことが楽しかった。カレンダーの裏や広告の裏など、隙間があればそこに思いついたものを書き込んだ。小さい頃は『落書き』だったかもしれないが、その時の楽しさが沸々と湧いてくる。
榛名のマンションに引っ越してきてから、「活力を失った」と言った神戸の言葉が良く分かる気がした。
描きかけた絵の全てに覇気も躍動感もなかった。それらを全て処分する時に、ふと、「あぁ、もう過去の自分はいないんだ…」とぼんやり思った。
辛くて苦しい道のりだったけど、不幸だったのかと問われたらそうだとは言えない気がした。
母に抱き締めてもらうこともなかった。名前を呼んでもらったことも数えるほどだろう。
だけど暴力を振るわれたわけでもないし、最低限の暮らしはさせてもらっていたことを思い出す。母は英人がモラルに反したことをすれば厳しく叱ってくれたが、それ以外のことには寛容だった。
いつの時代にも英人には『絵』があった。
悲しい時も淋しい時も絵を描くと何故かホッとできた。描き上がって完成することの達成感があったから気が紛れていたのかもしれない。
そして今、父は自分たちを捨てたわけではなかったのだという事実が被さって、薄暗かった過去に色を付け始めた。
いつも何事にも否定的で前向きに物事を捉えようとしなかった性格が、榛名の存在を得たことで着実に変わり始めている。
榛名は英人が悩んだり心配したりすることを一笑するばかりで、いつの間にか解決されていれば悩むのが馬鹿気になってくる。
今が幸せだと思うから余計に、過去のくよくよした自分が思い出せないくらいに消えていた。
僅か2ヶ月という短い期間で十数点の作品を仕上げてしまったため、神戸が個展を開くと言いだした。
「せっかくこれだけの作品があるんだもの、もったいないよ」
ギャラリーの保管庫にはわざと飾らずにとっておいた作品が数点あった。
前々から神戸が考えていたことなのだと想像がつくが、英人にしてみれば突然の話で萎縮してしまう。
自信がなくうなだれていれば、勇気づけるように神戸が諭した。
「まあ、プロデュースは僕に任せてよ。悪いようにはしないから」
ニコニコと笑みを湛えられれば反論のしようもない。
神戸も榛名と似ていて、決めたら譲らないところがある。やり方こそ違うが、最終的に丸めこみ思った方向へ向かわせる術は似た者同士だと時々思う。
自分の絵が人に見てもらえる環境は確かに嬉しいが、恵まれた中にありながら英人は満たされない何かを抱えていた。
それはフランスでの撮影風景を目にしてから芽生えた『もっと何か大きなもの』という夢だった。
人に言わせれば贅沢と言われるかもしれないが、この数カ月で絵はあくまでも『趣味』でしかないのだと強く思うようになっていた。
もちろんそんなことを榛名に話したこともないし、自分自身、今後をどうしたいのか具体的に決まっているわけではない。
個展に関しては一任してと神戸に言われてしまい、それ以上言いようのなくなった英人はその日、大人しく帰路についた。
榛名のマンションとアトリエとして買ってもらったビルはそう遠くはない。
マンションに帰ってもやることもなく、最近はアトリエに籠ることが多くなった。
大きなビルに囲まれているせいで日当たりも悪く、作品にとっては良いことだったが、昼間から電気を点けっぱなしで時間の経過がイマイチ分からない。
この日も、夜になって榛名が訪れるまで英人は描き掛けの画材の前に座り、将来に付いて考えながらぼんやりと佇んでいた状態だった。
「まだここにいたのか」
背後から声をかけられて、ハッとする。
榛名は一度帰ったものの、姿が見当たらずここにやってきたらしい。仕事帰りの格好のままで、英人が何かの作品に打ち込んでいるのだと思っているようだった。
「あまり詰めるな。身体に良くない。神戸から連絡をもらったが、それほど気負うことではないだろう」
英人に近づいてきた榛名は背後から英人の身体を抱き締めた。
神戸はすでに榛名にまで個展を開くと連絡を入れていたようだ。行動の素早さは感心させられる。
「うん。分かってる。…そうじゃないんだ、ちょっと…」
言うつもりではなかった言葉がポロリと零れてしまえば、即座に榛名は反応した。
「何があった?」
心の弱い部分を晒してしまったようで後悔したが後の祭りだった。黙っていることを榛名は許してくれない。
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英人くん今回の旅では多くのものを得たようですね。
精神的にも少しだけど強くなったようです、『もっと何か大きなもの』と考えられるくらいには。
それに、不幸だった生い立ちの全てが辛いことばかりだったわけではなったとか、満たされた愛情の中で育ったのではないにしても絵が支えてくれたことなど自分のこれまでを見つめなおせるなんて成長したなと思いました。
おねーさんはうれしいよ。
精神的にも少しだけど強くなったようです、『もっと何か大きなもの』と考えられるくらいには。
それに、不幸だった生い立ちの全てが辛いことばかりだったわけではなったとか、満たされた愛情の中で育ったのではないにしても絵が支えてくれたことなど自分のこれまでを見つめなおせるなんて成長したなと思いました。
おねーさんはうれしいよ。
甲斐様
こんばんは。
なかなかパソ子開けなくて…。
> 英人くん今回の旅では多くのものを得たようですね。
> 精神的にも少しだけど強くなったようです、『もっと何か大きなもの』と考えられるくらいには。
> それに、不幸だった生い立ちの全てが辛いことばかりだったわけではなったとか、満たされた愛情の中で育ったのではないにしても絵が支えてくれたことなど自分のこれまでを見つめなおせるなんて成長したなと思いました。
> おねーさんはうれしいよ。
私も嬉しいです。
精神的にかなり強くなりました。得たものもすごく大きかったと思います。
千城が何でも叶えすぎなのかな~って最近思っています。
こいつの甘やかし方は半端じゃないですからね…。
過去を振り返れる自信がついたのは成長のあかしだと思います。
甲斐様がついてくれたからひー君もきっとがんばれたのだと…。
コメントありがとうございました。
こんばんは。
なかなかパソ子開けなくて…。
> 英人くん今回の旅では多くのものを得たようですね。
> 精神的にも少しだけど強くなったようです、『もっと何か大きなもの』と考えられるくらいには。
> それに、不幸だった生い立ちの全てが辛いことばかりだったわけではなったとか、満たされた愛情の中で育ったのではないにしても絵が支えてくれたことなど自分のこれまでを見つめなおせるなんて成長したなと思いました。
> おねーさんはうれしいよ。
私も嬉しいです。
精神的にかなり強くなりました。得たものもすごく大きかったと思います。
千城が何でも叶えすぎなのかな~って最近思っています。
こいつの甘やかし方は半端じゃないですからね…。
過去を振り返れる自信がついたのは成長のあかしだと思います。
甲斐様がついてくれたからひー君もきっとがんばれたのだと…。
コメントありがとうございました。
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