年は30歳前後だろうか。行きつけのゲイバーでアルコール度の軽い酒を呷っていた時、カウンターテーブルの隣の席に座ったスーツ姿の男が、
「もう一杯飲む?」
と、声を掛けてきた。
この店にはよく来るが、見たことのない顔だった。
別段、自分から声をかけなくても、寄ってくる男など無数にいるだろうと思えるくらいに整った顔立ちをしている。たぶん長いのだろうと思われる頭髪はきっちりと整髪料で撫でつけられ、仕事帰りを思わせる雰囲気だったが、彼が醸し出すものは一般の平社員とは大きく違っていた。
若いと思われながらも人を惹きつける切れ長の瞳は狙った獲物を逃がさない力強さをたたえていた。頭のてっぺんから指先まで、放つオーラはこれまでに感じたことがないくらいに締まっている。
ぱっと見のスーツでさえ、その辺の同世代とは格が違うのをうかがわせる質の良さ。
過去に寝た男の中にこんな奴もいたっけ…と英人は内心で隣の男の外見を品定めしていた。
かくいう自分は、まだ大学生に思われても仕方のないような、胸元の大きく開いたカットソーに軽く羽織った七分丈のジャケット。それになんてことないジーンズを合わせただけの軽装だった。
さりげなくカウンターテーブルの上に置かれたエリートサラリーマンの指先に触れるか触れないかの位置に自らの手を置きながら、
「おかわり、もらってもいいの?」
と小首をかしげて見せた。
幼さを残すような英人の仕草に、
「ああ、もちろん」
とサラリーマンは口端を上げて柔らかな笑みを浮かべた。
甘える術はすでに身につけている。…つもりだった。
触れたか触れないかの指先にあったサラリーマンの手はスッと反らされ、さりげなくも自らの頭を支えるように頬杖をついた。カウンターに肘をつきながらも正面から英人を見据える瞳に、どこか緊張が走った。
ただ身体を求め誘われるだけの人に、こんなに緊張を走らせたことなどない。いつもおざなりな、その夜を満たすだけの関係を続けてきた英人にとって、自分自身の心の奥を抉られるような視線を浴びたことなどなかった。
今まで運が良かったと言うべきか。一夜限りの相手で失敗したことはない。危険だと思われる相手がいることは噂話で聞いてはいたが、実際に巡り合ったことがなかったから、危機感は薄かった。
手を伸ばせば握り返してくれる。望んでいなくても腰を抱かれ、甘い言葉を囁かれてその気にさせてくれる。一夜限りの相手は英人に不満を持たせたこともない。
あっという間に反らされた指先は、男を相手にする気がないってこいとなのかな…。
だったらこんな店に来なくったっていいのに…。英人の中で小さな葛藤が渦巻く。見た目は決して悪くはない。求められれば無償でも付いていけそうな美男なのに。
自分の表面だけを見ているのではない視線。取り繕い、奥底に押し込まれた心をガードするかのように固めた外壁を射抜かれるような焼けつく眼光。英人の心の葛藤など、取るに足らないものだというように刺し向かれる瞳は、これまでの男に対する経験を踏みにじるように嘲笑っているように見えた。
「同じものでいいの?俺は何をもらおうかな…。お勧めある?」
嘲笑するかのように見えた顔色も一瞬にして消え、気づかぬ間にカウンター越しのバーテンダーに英人の追加を頼みながら自らへのお勧めも強請っている。
「お酒は強くない方が?」
バーテンダーは英人を誘いにかかっている男の存在を認めたのか、アルコール度数の少ないカクテルを作って見せた。英人がこの店で客を取っているのは周知の事実だ。
店で見慣れた客ならば、バーテンダーもある程度の情報を英人に流してくれる。一夜の相手に失敗がなかったのはそういった事情もあるかもしれない。
だが、この男のことは知らないようだった。
お互いが心を許し合えば、店員が何を言って止める権利もなく、誰もが認めるような色男と、落とした人数は数知れずの英人を見てしまえば、この後は決まったようなもので、二人の間に割り込んでくる者もいない。
もちろん、ここで酒を呷っただけで終わりにすることだって可能だ。強引に英人を外に連れ出すことなど誰にもできない。
しばらく世間話で時が過ぎた。最近の経済はどうとか、地球の温暖化とか、当たり障りのない話が続いて、さすがの英人も、この男に自分と同じような趣味はないのではないかと思いかけた時。
男の顔がそっと英人の耳元に寄った。
「君と話がしたいんだ」
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「もう一杯飲む?」
と、声を掛けてきた。
この店にはよく来るが、見たことのない顔だった。
別段、自分から声をかけなくても、寄ってくる男など無数にいるだろうと思えるくらいに整った顔立ちをしている。たぶん長いのだろうと思われる頭髪はきっちりと整髪料で撫でつけられ、仕事帰りを思わせる雰囲気だったが、彼が醸し出すものは一般の平社員とは大きく違っていた。
若いと思われながらも人を惹きつける切れ長の瞳は狙った獲物を逃がさない力強さをたたえていた。頭のてっぺんから指先まで、放つオーラはこれまでに感じたことがないくらいに締まっている。
ぱっと見のスーツでさえ、その辺の同世代とは格が違うのをうかがわせる質の良さ。
過去に寝た男の中にこんな奴もいたっけ…と英人は内心で隣の男の外見を品定めしていた。
かくいう自分は、まだ大学生に思われても仕方のないような、胸元の大きく開いたカットソーに軽く羽織った七分丈のジャケット。それになんてことないジーンズを合わせただけの軽装だった。
さりげなくカウンターテーブルの上に置かれたエリートサラリーマンの指先に触れるか触れないかの位置に自らの手を置きながら、
「おかわり、もらってもいいの?」
と小首をかしげて見せた。
幼さを残すような英人の仕草に、
「ああ、もちろん」
とサラリーマンは口端を上げて柔らかな笑みを浮かべた。
甘える術はすでに身につけている。…つもりだった。
触れたか触れないかの指先にあったサラリーマンの手はスッと反らされ、さりげなくも自らの頭を支えるように頬杖をついた。カウンターに肘をつきながらも正面から英人を見据える瞳に、どこか緊張が走った。
ただ身体を求め誘われるだけの人に、こんなに緊張を走らせたことなどない。いつもおざなりな、その夜を満たすだけの関係を続けてきた英人にとって、自分自身の心の奥を抉られるような視線を浴びたことなどなかった。
今まで運が良かったと言うべきか。一夜限りの相手で失敗したことはない。危険だと思われる相手がいることは噂話で聞いてはいたが、実際に巡り合ったことがなかったから、危機感は薄かった。
手を伸ばせば握り返してくれる。望んでいなくても腰を抱かれ、甘い言葉を囁かれてその気にさせてくれる。一夜限りの相手は英人に不満を持たせたこともない。
あっという間に反らされた指先は、男を相手にする気がないってこいとなのかな…。
だったらこんな店に来なくったっていいのに…。英人の中で小さな葛藤が渦巻く。見た目は決して悪くはない。求められれば無償でも付いていけそうな美男なのに。
自分の表面だけを見ているのではない視線。取り繕い、奥底に押し込まれた心をガードするかのように固めた外壁を射抜かれるような焼けつく眼光。英人の心の葛藤など、取るに足らないものだというように刺し向かれる瞳は、これまでの男に対する経験を踏みにじるように嘲笑っているように見えた。
「同じものでいいの?俺は何をもらおうかな…。お勧めある?」
嘲笑するかのように見えた顔色も一瞬にして消え、気づかぬ間にカウンター越しのバーテンダーに英人の追加を頼みながら自らへのお勧めも強請っている。
「お酒は強くない方が?」
バーテンダーは英人を誘いにかかっている男の存在を認めたのか、アルコール度数の少ないカクテルを作って見せた。英人がこの店で客を取っているのは周知の事実だ。
店で見慣れた客ならば、バーテンダーもある程度の情報を英人に流してくれる。一夜の相手に失敗がなかったのはそういった事情もあるかもしれない。
だが、この男のことは知らないようだった。
お互いが心を許し合えば、店員が何を言って止める権利もなく、誰もが認めるような色男と、落とした人数は数知れずの英人を見てしまえば、この後は決まったようなもので、二人の間に割り込んでくる者もいない。
もちろん、ここで酒を呷っただけで終わりにすることだって可能だ。強引に英人を外に連れ出すことなど誰にもできない。
しばらく世間話で時が過ぎた。最近の経済はどうとか、地球の温暖化とか、当たり障りのない話が続いて、さすがの英人も、この男に自分と同じような趣味はないのではないかと思いかけた時。
男の顔がそっと英人の耳元に寄った。
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